福井別院本瑞寺とは
おてら

正式名称は、真宗大谷派福井別院本瑞寺。
(しんしゅうおおたには・ふくいべついん・ほんずいじ)

地元福井では東別院、福井東別院とよばれています。
「真宗大谷派」の別院で、教えは親鸞聖人を宗祖とする「浄土真宗」、本山は京都市にある真宗本廟(東本願寺)です。

越前における親鸞聖人の教えの普及は承元元年(1207)の越後御流罪、北陸路を通過される頃から始まったと考えられ、念仏の道場はそのころより創設されたと推測されています。

蓮如上人(本願寺八代)が吉崎に向かわれた際(1471)の布教を契機に、多くの寺院が蓮如の本願寺に改宗・転派あるいは創建し、末寺となりました。この北ノ庄(現在の福井市)にも教化を受けた人々によって総坊(総道場)が建てられました。それは浜町(現在の中央三丁目。足羽川沿いのうち九十九橋から桜橋)近くで、近隣の九ヶ寺で管理するようになりました。

慶長6年(1601)徳川家康の二男である結城秀康が初代藩主として入部しました。教如上人(本願寺十二代)を徳川家康が肩入れする関係にあったこともあり、秀康は教如上人に好意的な立場でした。慶長10年(1605)には秀康から城下の常盤町に約三千坪の寺地を寄進され、堂宇を建立しました。このときから「東之御坊本瑞寺」と称するようになりました。十四間四面の本堂と、三間に五間の庫裡でした。ここに名実共に「東御坊」が誕生したのです。さらに、総坊監理の九ヶ寺も本瑞寺寺域内に移され、北ノ庄における教如上人への支持はこうして固まっていきました。

慶長15年(1610)初代住職には教如上人の三女・亀子姫(栄寿院教応禅尼)が就きました。その時、亀子姫は十七歳でした。

このあと寛永年間末期(~1644)第三代住職従応(龍華院宣亨)の時にこの堂宇は大火で焼失してしまいます。これが福井別院の第一回の火難でした。

この時、秀康の従弟であり家老でもあった永見志摩守吉次は自分呉服町の下屋敷(四千四百坪)を寄進し慶安年間(1648~1652の4年間)に堂宇を再建移転させました。これが現在の別院所在地です。

本堂について

本堂

現在の本堂(鉄筋コンクリート造)は、昭和38年(1963)6月の宗祖親鸞聖人700回御遠忌のとき、本堂再建を計画し、同44年5月に完成したものです。
平成15年(2003)5月22~25日には蓮如上人500回御遠忌を、福井教区と福井別院が教別一体となってつとめました。その記念行事として、大谷会館とともに本堂(19間×25間)を修復しました。

本尊について

阿弥陀如来

あなたは本尊に向かい、どのような思いで手を合わせておられるでしょうか?

ご本尊は、私の思い通りにしたいことをかなえてくれる存在ではなく、私たちに「あなたにとって本当に尊いことはなんですか?」と問いかけてくださる仏様なのです。

浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来です。そのお姿は絵像、木像などがありますが、どれも「南無阿弥陀仏」の六字名号を私たちに分かりやすく表現したものであります。
親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」あるいは「帰命盡十方無碍光如来」をご本尊として礼拝されていたともいわれいます。
ご本尊に向かって右脇に掛けられています「帰命尽盡十方無碍光如来」(十字名号)、左脇に掛けられています「南無不可思議光如来」(九字名号)は阿弥陀如来の私たちへ呼びかける願いのちがいによって呼び名が変わりますが、どちらも「南無阿弥陀仏」の別の呼び方であります。(脇掛けは「親鸞聖人」「蓮如上人」の絵像の場合もあります。)
阿弥陀如来は生きとし生けるものをわけへだてなく救おうとしてくださる仏像です。立ち上がって私たちに寄り添おうとしてくださるお姿が、浄土真宗のご本尊なのです。

私たちは、その阿弥陀如来の願いに尊いと気づいたとき、自然と「南無阿弥陀仏」と手が合わせるのです。

親鸞聖人について

親鸞

浄土真宗の教えを顕かにされた親鸞聖人。私たち真宗門徒は「宗祖」・「御開山」(ごかいさん)と呼び親しんでいます。親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』(『教行信証』)を著し、念仏の教えを伝え広められました。
9歳のときに出家、得度をし、20年の間比叡山で仏教を学ばれましたが、生きることの真実の意味を求め比叡山を降りられます。そして、「東山吉水」の法然上人のもとにゆかれ、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という仰せに出遇われ、すべての人がともに救われる念仏の教えを明らかにしてくださいました。

年表

文明三年  (1471) 蓮如上人が吉崎を開創される。このころより北ノ庄(現福井市)にも北ノ庄総坊(別名九ヶ寺総坊=福井別院の前身)と呼ばれる堂宇ができる。
慶長十年  (1605) 福井藩祖・徳川家康の子秀康により城下常盤町に約三千坪の土地を寄進され、ここに北ノ庄総坊を移転、これと結城より引越ししてきた本瑞寺を合併し、東之御堂本瑞寺と称した。
慶長十五年 (1610) 教如上人、息女・亀子姫(栄寿院教応禅尼・十七歳)を本瑞寺初代住職とする。
寛永末年  (1640?) 第三代住職・従応(竜華院宣享)のとき、類焼により本堂が焼失。このとき秀康の従弟・永見志摩守吉次が、自分の下屋敷を本瑞寺に寄進し、移転再建(現在地)。
万治二年   (1659) 大火により堂宇を焼失。
元禄五年   (1692) 十五間に十七間という大本堂が完成。
明和三年   (1766) 大火により堂宇を焼失。(民家二千六百余戸、寺院四十三ヶ寺)
安政元年   (1854) 塩町付近より出火し、御堂を焼失。(民家二千余戸、寺院五十余ヶ寺)
文久二年   (1862) 二重屋根の大本堂を再建。
慶応二年   (1866) 宗祖親鸞聖人六百回御遠忌を厳修。
明治九年   (1876) 福井別院本瑞寺と呼称されるようになる。
明治三十五年 (1902) 大火により本堂を焼失。(民家三千余戸、寺院三十四ヶ寺)
明治三十六年 (1903) 現如上人(本願寺第二十二代)の次男・能浄院大谷瑩誠連枝が第九代住職となる。
大正九年   (1920) 本堂竣工。(二十四間四方)ナンバー 年表

ナンバー 旧本堂(大正9年)

昭和三年   (1928) 鐘楼堂が竣工。
昭和十五年  (1940) 山門竣工。(本山御影堂と同型)ナンバー
昭和二十年  (1945) 七月十九日、福井市空襲で、一夜にして大伽藍が灰燼に帰す。
昭和二十一年 (1946) 金沢別院より一宇を譲り受け仮本堂を建立。 年表

ナンバー 山門・鐘楼堂
 (昭和15年)

昭和二十三年 (1948) 六月二十八日、福井地震により仮本堂が倒壊。
昭和二十六年 (1951) 再び仮本堂を建立。
昭和三十三年 (1958) 蓮如上人四百五十回御遠忌が仮本堂で厳修。
昭和四十四年 (1969) 現在の本堂が竣工。(十九間に二十五間、一部三階建て、重層入母屋式) 年表

ナンバー 仮本堂・庫裡
     (昭和26年頃/福井震災後)

昭和四十六年 (1971) 現在の鐘楼堂竣工。
平成八年   (1996) 内陣修復。
平成十三年  (2001) 本堂屋根ふきかえ・内外装修復。 年表

ナンバー 本 堂(平成15年)

平成十四年  (2002) 大谷会館内外装修復。
平成十五年  (2003) 福井教区・福井別院
蓮如上人五百回御遠忌法要を厳修。ナンバー
平成二十七年 (2015) 福井教区・福井別院
親鸞聖人七百五十回御遠忌法要を厳修。

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